深い森

~考える女の気づき録~

映画『華麗なるギャツビー』(2013)/純粋な愛?それとも

レオ様版の『華麗なるギャツビー』について。

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二記事目です。

 

すごくたくさん考えたくなることがあったので、

考えたことのうち

恋愛と幸せについて"だけ"

恋愛脳全開で

書いてみようと思います。

 

「ネタバレしかない」くらいの勢いで

ネタバレを気にせず書きますので

ご注意ください。

※あらすじの説明はしないので、鑑賞済みでないと意味不明です。

 

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今回は

「ギャツビーのデイジーへの気持ちは、純粋な愛だったのか?」

というテーマで書こうと思います。

 

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デイジー&ギャツビー。美しいですね。

 

私は原作未読なので

この映画に限ってしか語れないのですが、

 

ギャツビーのデイジーへの愛は

彼の出世欲や金銭欲に直結している

ということは、たしかに描かれています。

 

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彼が必死になって手に入れた「成功」は

すべて彼女のためです。

彼女にふさわしい男になるためです。

彼女に愛され(認められ)るためです。

 

 

以下は、ジョーダン(デイジーのセレブ友だち)を狙っている男がニックに放った言葉です。

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"現実を見ろ  庶民が高望みするな"

 

これ、

デイジーと出会った頃のギャツビーが

他人や自分自身に放たれていた言葉なんだと思います。

 

 

ギャツビーはデイジーと出会う前から

自分が貧しい庶民であることを嫌い

成り上がると決意していました。

 

そして、生粋のお金持ちであるデイジーと出会い、恋に落ちた。

 

 

もしかしたら、なんですけど

「生粋のお金持ちであるデイジーに愛され=認められること」で、

自分のコンプレックスを埋めようとしてたんじゃないかな??

 

デイジーに認められれば

自分はもう、庶民ではない!と思える。

 

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少し話が逸れます。

 

ネットで本作のレビューを検索して

それなりの数を読んだのですが、

 

トムとデイジー最低!

デイジー、ビッチ!!

理解不能!!

 

みたいな意見が結構あって

ちょっとビックリしました。

 

みんなそんなに

・清く正しく美しく!

・いつでも自分を信じて!

生きられているのかな??

 

私は

トムとデイジーの気持ち&行動が

よくわかる気がします。

 

いくら愛し合っていても

他人は他人です。

100%知ることは出来ない。

知らない部分が必ずある。

 

だから、知らなかった部分を見せられると

今までのことを信じていいのか

わからなくなる。

 

普通じゃないですかね??

 

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不倫されたから、愛を疑ってしまう。

人殺しのような形相で恋敵にキレるところを見て、ドン引きしてしまう。

 

「戻ってきたら結婚しよう」と言われても、その言葉はいつまで有効なのかわからない。

もう、相手の気持ちは変わっているかもしれない。

 

だって、

永遠に変わらない、確かなものなんて

ほとんどないから。

 

だから、揺れる。

 

普通じゃないかなぁ…(二回目)。

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(あんなに激昂した直後に必死で昂りを抑えて語りかけられても、余計怖くなるわ。)

 

 

つまり、何が言いたいかというと

人間って、みんな

結構キタナイものなんじゃないか

ということです。

 

 

私は、自分のことを

結構キタナイ人間だと思っています。

 

だって、

なんだかんだ言って、自分が一番大事だし。

他人を傷つけてでも自分を守ってしまうことは、やっぱりあるし。

「私、めっちゃ性格悪いな」と思いつつやってしまったこともあるし。

考えちゃいけないようなことを考えてしまうこともある。

 

でも、みんな

そんなものなんじゃないかな?

 

 

だから私は

素晴らしい映画の中に

キタナイ登場人物がいると

安心します。

 

"あぁ、こんなにキタナくても

こんなにダメで酷い人間でも

存在していいんだ…"

と、勝手に許された気になります。

 

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本筋に戻ります。

 

ここまでの話をまとめると

 

ギャツビーのデイジーに対する執着は

純粋な恋愛感情ではなく

「見返してやりたい」というような気持ちによるものなのではないか?

 

ということです。

 

 

この疑問は

じゃあこの世に

「純粋な愛」なんてあるのか?

所詮すべての愛は何かの投影なんじゃないか?

という厭世観に向かっていきますが…。笑

 

 

愛って

「好き」って

何なんでしょうね…?

 

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女はやっぱり

「美しき おバカさん」でいるのが

いいような気がします。

 

ちなみにこのセリフ、

デイジーは悲観たっぷりで発していますが、

私は明るく捉えています。

 

 

 

今回はここまで。

 

映画『華麗なるギャツビー』(2013)/不倫や浮気の改善方法

今日はレオ様版の『華麗なるギャツビー』を観ました。

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すごくたくさん考えたくなることがあったので、

考えたことのうち

恋愛と幸せについて"だけ"

恋愛脳全開で

書いてみようと思います。

 

「ネタバレしかない」くらいの勢いで

ネタバレを気にせず書きますので

ご注意ください。

※あらすじの説明はしないので、鑑賞済みでないと意味不明です。

 

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長くなるので、

今回は対象をブキャナン夫婦(不倫)に絞ります。

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夫:トムと、妻:デイジー

 

彼らは二人とも不倫をしています。

物語の冒頭では、トムだけがしていて

デイジーはしていませんでした。

 

本作の主人公:ギャツビーは

デイジーの元恋人です。

 

デイジーはギャツビーとの再会によって

不倫を始めます。

 

この二人を見ていて思うのは

やはり、不倫をする時の気持ちというのは

「自分のパートナーは、自分のことを本当は愛していないんじゃないか」

=「自分は愛されていないんじゃないか」

という「不安/不信」なのかな

と思います。

(中には単純に同時に複数の人を愛する性質の人もいると思いますが。)

 

その点、デイジーはわかりやすいです。

ギャツビーとの不倫を始める時、夫の不倫に傷ついているので。

 

ただ、「トムはどうなんだろう?」と思ったので

本編を再確認しつつ考えてみました。

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このセリフの主語は「デイジー」です。

つまり「結婚当初は、妻も私を愛していた。あ、今もだけどね!」ということです。

 

 

でも、ギャツビーはデイジーに「あなた(トム)を一度も愛したことがない」と言わせます。

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ギャツビーはそう思いたいから!!

 

でも、デイジー

「トムへの愛もあった」と言い直します。

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だってトムが

こんな顔↓で、目をウルウルさせて

「あの時は?」「あの時も?」と

聞いてくるんですもん…。。

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トム…というか、男性ってやっぱり

愛を女性から"与えられた"時じゃなく

愛を女性に"受け取ってもらえた"時

愛されたと感じるんでしょうね…。

 

だから、トムが不倫に走ったのは

「デイジーは俺の愛をちゃんと受け取ってくれていない」

と感じたからなんだろうな〜…と。。

 

で、拗ねて、

デイジーに愛を与えづらくなる。

 

するとデイジー

「トムが愛を与えてくれなくなった」

=「もうトムは私を愛していないんだわ!」

と感じる。

 

このループ…。。

 

卵が先か鶏が先か、という話なので

一番初めの原因を探してもあまり意味がなく、

どちらかがその誤解を打ち破るしかありません。

 

というか、むしろ

与えても与えても

受け取る側が受け取らないと

「受け取ってもらう」ことは出来ないので

 

女性が「受け取る覚悟をする」

=「愛されていると信じてみる」しか

ないんじゃないか?!?!

という風に思えてきました…。。

 

与えられていないものまで

与えられていると思い込もうとすると

またおかしくなるんですけど…

今はそれは置いておきましょう。

 

 

ん〜…

でも、やっぱり

男性にも工夫の余地はあるか。

 

相手をしっかり観察して

相手が受け取りやすそうな形にする

という工夫が。

 

 

 

次回に続く(たぶん)。

他人の長所を、全員の義務にしてはいけない

アイドル界のスーパースター:松田聖子さんは

他人の悪口を言わなかったらしいです。

 

将棋界のスーパースター:藤井聡太七段も

他人を悪く言うことがありません(少なくとも、公の場では)。

 

 

それは本当に素晴らしいことです。

 

 

だからと言って、

批判や悪口を禁止するのも

変な気がするのです。

 

 

「他人を悪く言うと、結局自分が損する」

というのもわかるし、

(私自身の評判が悪くなるし、敵を作ることにもなるので自分も他人から悪口や批判を言われるでしょう)

 

内々で留めておけばいいというのも、わかる。

 

でも、書いてみたくなった(インスタ)。

 

 

 

ただ、

私が嫌われたい(損したい、自分を責めたい)だけなのかもしれないし、

 

はたまた別の理由があるのかもしれない。

 

 

それはわからない。

 

私自身も、自分に関係ないものでも批判や悪口を見たら嫌な気分になると思う。

 

でも、なぁ…。。

 

う〜ん。。

 

なんか、

いいことしか言わないのは

自分に限っては、嘘くさい気がして…。。

 

 

きっと、松田聖子さんや藤井聡太七段は

「自然に」

他人の悪口や批判を言わずにいられるんだと

思うんです。

 

 

その、他人の素晴らしい「自然」を

自分や他人に強要するのは

なんか違うなぁ…と

思ったわけです。。

 

 

 

 

未来に注いだ分、現在のエネルギーが減る

あくまで、私の場合ですが。

 

私は方向音痴だし

気まぐれだし、で

 

「計画」というものが

大体役に立ちません。

 

 

例えば

「明日は14時に美容室に行かなきゃいけないから、

13時頃に駅に行って、美容室の近くのカフェに行こうかな」

とか考えても

 

・すごく早く目が覚めてしまって、11時頃に駅に行ってしまったり

・13時頃に駅に着くように家を出られなかったり

・お目当てのカフェが混雑していて入れなかったり

・なんかそのカフェの気分じゃなくなってたり

するのです。

 

 

 

そして、今日気づきました。

私の「計画」はどうせ役に立たないんだから

計画を立てるエネルギーが無駄じゃないか?

と。

 

 

「計画」は未来のエネルギーです。

未来のその時点で省エネする為に、今エネルギーを使っておく…という感じかな?

エネルギーの前払い、的な。

 

でも、私の場合は

前払いでエネルギーを使ったのに

結局「未来のその時点」でまた「今」考えないといけなくなるので

ただエネルギーを減らしただけ…。。

 

 

だったら、もう

計画は最小限にして

あとは「成り行き」でいいのかな。

 

 

そう思いました。

 

肩書き=自分

小学生の頃に通っていた英語塾で

何かを選んだ理由を先生に聞かれて

年上の生徒さんが「なんとなく」と答えたのですが

「なんとなくじゃダメだよ〜。最近の子はなんでもなんとなくって言うよね〜」

と、ダメ出しされていました(^_^;)

 

 

それからなのか

いつからなのかわかりませんが

 

私も最近までずっと

「なんとなく、じゃ、ダメ!!!」

と思っていました。

 

何をするにしても

意思とか、意志とか、理由とか、

そういうものが明確でないといけない。

 

そう思っていました。

 

映画一本見るにしても

「その映画」でなければいけない理由が

明確でないといけないと思っていました。笑

 

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きっと

理由や目的が行動に先立つ人もいるのでしょう。

 

でも、私は

「なんとなく」の人間です。

 

 

なんとなく、今はあそこに行きたい。

なんとなく、今はあれが食べたい。

なんだかよくわからないけど、今はこれが楽しい。

なぜか、今はこれに夢中!!

 

そんな感じです(*´-`)笑

 

 

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ここまで考えていて思ったのですが

「◯◯になりたい!」というのも

私にとっては不自然なことかもしれません。

 

歌手になりたい、とか

こういう服が似合うようになりたい、とか

 

その「なりたい」とイメージしてるものって

「自分以外の誰か」なんですよね。

 

だって、

「なりたい」と思うということは

自分は現時点でソレじゃないということ。

つまり、ソレはいつでも「自分以外の何か」。

 

 

なんとなくで動く人間なのに

「自分はこういう人間だから」という理由を固めておくのは

不自然なんじゃないか??

 

「何か」になればなるほど

不自由を感じるのではないか??

 

そう思いました。

お金にならないものは価値がない?/資本主義のコンベアー

働いていない人間は何も楽しんではいけない

=働けない人間は生きる価値がない

と言われる

 

と、ずっと思っていました。

 

 

それと同じような感じで、

好きでやっていることでも

それがお金にならない(売れない)なら

価値がないと言われる

 

とも、思っていました。

 

 

例えば、

小説を書くのが大好きでも

それが売れなければ、

・小説を書くのに向いていない

・小説を書くのはやめるべき

ということ。

 

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でも、それって

よくよく考えたら

 

「資本主義」のコンベアーに乗らないものは無駄!

切り捨てなければいけない!

 

という

「資本主義の論理」なんですよね。

 

 

でも「資本主義」というのは

一つの体制に過ぎず、

 

あらゆる「人生」のすべてが

その枠に収まるとは限らない

 

そう思いました。

 

 

だから

資本主義の中にいても

資本主義から外れる部分も出てくる。

 

果たして、それは

「人生」から切り落とさなければいけないのか?

 

「人生」の為の資本主義なのか

資本主義のための「人生」なのか?

 

 

 

 

 

 

間違っていたら恥をかくだけ…/役に立たないプライド?

「やりたい!」と思ったことでも

「もしこの気持ちが、自分の勘違いだったら?」

と、つい考えてしまいます。

 

 

もし、勘違いだったら

どうせうまくいかないし、

 

そしたら、結果は

「恥をかくだけ」だし…

 

と。

 

 

 

恥をかくのが嫌で、怖くて

恥をかかない範囲の「やりたいこと」しか

出来ない人間になってしまいました。

 

この「恥をかくのが怖い、嫌だ」という気待ちを

「役に立たないプライド」

と言うのかもしれません…。

 

 

 

恥をかいても、いいのかな。